哀れみのない正義は冷酷である。しかし、正義のない哀れみは解体の母である。
by トマス・アクィナス
あなたは正義感を振りかざしてはいませんか?
タイトルの言葉は、中世イタリアの哲学者 トマス・アクィナスの言葉です。
哀れみのない正義は冷酷だと述べた深いメッセージですね。
皆様は、「正義」という言葉を聞いて、どんなイメージを持ちますか?
正義とは、道徳的に正しいとされることを意味します。
例えば、「正義感を持つ」とか「正義を貫く」、「正義の味方」という表現をよくするわけですが、いずれにしても、「正義」という言葉を悪い意味で使われることはほとんどないわけです。
したがって、「正義」という言葉を使えば、それに従わなければならないような気持ちになり、それに逆らうことは悪いことのように思われるわけです。
しかし、「正義」という言葉によって、相手を傷つけたり、冷たく感じるような悪影響を及ぼす恐れがあることも事実です。
人は、立場や状況によっては、正義を貫くことができない場合もあるからです。
例えば、混雑した電車やバスの中で、若者が座席に座っており、高齢者が立っている光景を見た乗客の一人が、「お年寄りに席を譲りなさい」と正義感を振りかざして若者に言ったとします。
若者が立ち上がったところ、若者は松葉杖をついた片足が不自由な人だったということがありうるわけです。その途端、車内の空気は一気に重くなってしまいます。
つまり、「若者が座り、高齢者を立たせることは不合理だ」と正義感を振りかざすことが、必ずしも正しいとは限らないのです。
高齢者でも健康で丈夫な人もいれば、若者でも障害を持っていたり、病弱な人もいるからです。
若者に対して、少しでも優しさとか思いやりの気持ちがあれば、こんなことにはならなかったはずです。
正義には、優しさとか哀れみの気持ちがなければ、冷酷になってしまうという例の一つです。
反対に、道徳的に間違っていることを、可哀想な人だからと、見て見ぬふりをしたり、許容してしまうのも問題があります。
恵まれない人や、不幸を背負った人なら、何をやっても許されるような社会は、成り立たないからです。
どんなに恵まれない人、不幸な人であっても、きちんと道徳を守らなければならないのは当然のことなのです。
社会には、法律やマナーというものがあり、それに従うべきなのは言うまでもありません。
しかし、正義を振りかざして、「絶対に守るべきだ」と優しさや愛情を度外視して強く主張するのも、賢明な言動とは言えないような気がします。
私たちは常に正義感が正しいという思い込みを捨て、人に対する優しさや思いやりの気持ちを忘れてはいけないということなのかもしれませんね。